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マニラ市街戦から70年-当時の状況を伝える大統領府特設写真サイトも

市街戦の状況を伝えるフィリピン大統領府の特設サイト

市街戦の状況を伝えるフィリピン大統領府の特設サイト

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 第二次世界大戦中の1945年2月3日から3月3日まで行われた「マニラ市街戦」から70年がたった。大統領府は特設写真サイト「Battle of Manila 1945」を設け当時の状況を伝えている。

市街戦で廃墟となったマニラ、市民の犠牲者数は約10万人といわれる

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 マニラ市街戦は3年前に日本軍が占領したマニラを連合国が奪還した戦い。市街戦は1カ月間続き、マニラは廃虚となりマニラ市民約10万人が犠牲となった。当時マニラには約70万人の市民がいたといわれており、約7人に1人が犠牲となる大惨事だった。「市街戦によって市民に犠牲者を出さないように」と日本軍の一部はマニラを放棄したが、残った日本軍はマニラ市を盾に戦い壊滅した。

 この市街戦において当時世界で一番美しい街「東洋の真珠」と呼ばれたマニラの市街地は徹底的に破壊された。16世紀にミゲル・ロペス・デ・レガスピがマニラの元となる城壁都市「イントラムロス」を作って以来の350年以上にわたる歴史的建築、遺物、美術品はほぼ全てが失われた。350年の歴史が1カ月で奪われたともいわれる。このマニラ市街戦による首都の喪失が戦後のフィリピンの復興、発展に暗い影を落とし続けた。

 特設サイトでは231枚の写真が掲載されており、破壊されたマニラの街並みや生き残った市民の生活、進駐したアメリカ軍の様子がうかがえる。街頭でのインタビューで日本人はあまりマニラの市街戦について学校では教わらないことを伝えると、大学生のアンドレ・メジナさんは「フィリピンではマニラ市街戦の規模や犠牲者の数は小学生でも教わっている。現在、両国は非常に親しい関係にあるが、フィリピン人の日本に対する好意は、マニラ市街戦の悲劇や日本が起こした戦争によって身近にいる祖父や祖母が受けた苦しみを乗り越えてつくられたことを忘れてほしくない。フィリピンは決してマニラ市街戦を忘れないし、日本は忘れてはいけない」と驚く。「私は日本食も大好きだし、日本にも大変興味があり将来訪れたい。日本人にも、もっとフィリピンの歴史や文化に興味を持ってもらえたら」とも。

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